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朝日投書の「SNSのアカウント削除は自殺」はネット依存の問題か

 

投書『ネットと現実 混同は異様?』ここにある「バーチャル」と「命」、2つの捉え方の違いをどう見るか…

 

今日、新聞を読んでいて、なかなか興味深い意見を見つけたのでそれについて書く。

その意見とは、2017年3月12日朝日新聞に投稿された投書で、20歳の大学生によるもの。タイトルは、ネットと現実 混同は異様?』。

 

その内容について簡単に書く。

デジタルネイティブ世代を自負する彼女は、現実とネットの区別があいまいになっている感覚があるという。友人がツイッターのアカウントを削除したことは、「現実世界でいえば自殺と同じ行為」だと表現する。そして、自身のSNS上の過去の投稿を削除することは、「自分の歴史の一部」を消すことだとして躊躇いを覚えるのだという。 

  

過去の投稿もよっぽど恥ずかしければ何も考えず消すだろうし、「忘れられる権利」だとか「削除代行」とかが話題になってる中でそのスタンスなら、彼女の過去はきっと十分に清廉潔白だし、恥ずかしい過去も思い出としてみられる大人なんだろう。さらには、新聞に投書をするくらいにはメディアとの関わり方を弁えている、むしろ少数派なのではとも思う。

 

けれど、「SNSのアカウント削除は自殺」だという表現には、どうにも腑に落ちないところがあった。僕と投稿者の彼女との年齢差はほとんどないけれど、この数年の違いがネットとの関わり方に大きく影響しているのか、あるいは他の要因があるのかもしれない。

僕はこの考えについて全く共感できないけど、でもできる限りには冷静に考えてみたいと考えた。これを安易に「世代の問題」として片づけてしまってはいけない気がしたのだ。

まず、彼女の一個人としての考えを「サイキンノワカモノ」にまで敷衍するような、世代間の不理解を生む典型的な間違いは避けなければいけない。

 

 

僕と投稿者のズレー2つの要因

投書の大学生は、「SNSアカウントの喪失」を「死」と重ね合わせた。でも僕には、その二つの間には大きな差異が存在しているように思われる。

僕と彼女の間にあるこの感覚のズレを左右する要因については、以下の二つが考えられる。

SNS上の関係性

現実における「死」の重み

この2つの現象に関する意味の相対的な関係性が、僕と彼女で異なっているんだろう。

そして、「死」というものが社会的に深刻な意味をもった状況だという前提に立つならば、この2つの要因について以下のような差異があると考えられる。

 

SNS上の関係性が相対的に重要化した

アカウント削除の意味が一個の生命の終わり、としての「死」に近いところまで重大化したということ。裏を返せば、アカウントが一個の生命ほどの重みを持つようになったということ。

 

少し個人的な話をすると、僕が大学に入った頃なんかは特にフェイスブックが急速に普及していったとき(体感的にはツイッターがその直後)だった。僕はそういうのに疎い方だったから、結構周囲のプレッシャーは強かった記憶がある。

「逆になんでやらないの?」みたいな。「逆に」ってなんだよっていう笑。当時の「写真を撮ったらSNSで共有するのが当たり前」という感覚が急速に広まる様子は結構衝撃的ではあった。(あと、「結婚式のとき困るよ?」ってのは結構びっくりした笑)

 

新しいコミュニティで一から関係性を作っていく時、社交的な人にとってSNSはとても便利に働く。そのとき、アカウントがオンライン上の抽象という領域を超えた、自分の精神の延長として機能して、具体的な関係性をつくりだすことになる。そこにおいて、単なるバーチャル世界のアイデンティティに過ぎないアカウントは決して無機質なものではなく、それを通じて他者との理解、交流、承認が生まれるある種の「温もり」を帯びたものとなる。

この意味では、SNSアカウントとは自分の内面そのものであり、そこを起点に始まり、拡大された他者との関係性にも大きな意味が生まれてくるとしても不思議はない。

 

よって、「SNS依存」のような雑な批判は多くの場合意味をなさない。なぜなら、一部の共同体、(特に学校コミュニティ)においては他者の依存度こそが自分の依存度を決定する唯一の指標となるからだ。わかりやすく言えば、「皆がやってるから」とか、「ついていくために」とかが真剣に大きな意味を持つことになる、ということだ。

(そもそも僕はネットにはかなり疎い方なので説得力があるかはわからないけれど…)

 

 

現実における「死」の重みが相対的に低下した

投書の学生は、オンラインにおいて「他者との繋がりを失う」ことを疑似的な「死」と表現した。このことは、それまで存在していた活動能力や、自身の記憶(記録)が、その一瞬を境に消去されてしまうと言うことを表現したいんだとは思う。

 

だが、僕の見解において「死」とは、あくまで不可逆的な現象だ。

アカウントの喪失によって消えるのは所詮データであり、記録は消えても記憶は残る。それに自分のアカウントが消えてもそれに関するデータは他人の手元に残るし、再び手に入れることだって難しくないはずだ。アカウントは、いわば「生き返り」、「蘇生」が可能な命ということになる。そしてもちろん、お互いの内面を通じて知り合った他者とは他の手段を通じた交流の余地が残されている。

この点において、どうにも僕と彼女との間には、「死」についての捉え方が大きく異なっているようだ。そして、この投書の「自殺」表現を読んで違和感を抱いた方が他にいるとすれば、おそらくその方の違和感も大半はここに収斂するのではないかと思うのだ。

だから、1人の大学生がアカウントというバーチャル領域における便宜的な形象を「命」と見ることは、それ自体ショッキングな表現ではあるが、それはあくまで彼女の個人的な感覚であって「デジタルネイティブ」世代の「ネット依存」と直結して語るべきではないと考える。

 

 

まとめ

SNSやネットへのかかわりは世代によって大きく異なる部分だ。僕だって、物心ついたころからネット技術に親しんできた世代が成長してくることに、どこか「怖れ」のような気持ちを抱いている。(そういう意味でいまネットで個人として稼いでるブロガーみたいな人はやばそうだよね。)

でも、この世代間の不理解がすべてテクノロジーへのかかわり方に由来するとも思えない。実際は、物事の捉え方すべてが移り変わっているはずだし、個人の特質による部分も相当にある。

だから、今回話題にしたアカウントの喪失を「死」になぞらえた意見にしても、SNS依存やバーチャル領域の不健全な肥大化といった既存の枠組みに押し込めてはいけないと思う。そんな安直極まりない理解では、異なる世代への理解およびテクノロジーを挟んだ世代間の相互理解も一向に進まないだろう。世代間の違いが、テクノロジーへの捉え方だけに限定されるわけがないんだから。

でも、教室に取り残されるのと、時代に取り残されるの、似ている部分も違う部分もあるしどちらがより嫌かとかも意見別れると思うけど、どちらも鬱屈した気分になるのは間違いないよね。だから実は、「SNS依存」を叩いている大人と、「SNS依存」になる子供とは理解し合える素地を持ってる気もする

 

 

あとがき

SNSにおける「ログアウト」が意識を失った「気絶状態」だと言うのなら、割とすんなり納得できる気もする。周囲からの呼びかけが聞こえないし、復活があり得るからね。

で、実際、いきなり連絡つかなくなって困るのは周りだったりするよね。その意味で、「いつでも繋がっていること」は現代社会における「生の前提」になってしまっているのかもしれない。

僕は以前スマホが壊れたときPCでバックアップを取っていなかったことでアカウントが消えてしまったことがあった。この際丁度いいと思って、そのまま「ライン断ち」したんだけど、自分としては特に不自由も感じないけれど、周りからとにかく言われるんだよ。その時やっぱり言われた、「死んだのかと思った」って。僕としてはなにも困らなかったんだけど。

まあ、このことから考えても、投稿者の学生と僕の間には、「アカウントの喪失」と「死」の両方の意味について認識のズレがあることがわかる。

 

あと、ほとんどの人は複数のSNSを使い分けてるし、ツイッターだと興味関心の領域に合わせて複数アカウント使い分けてるのも一般的だよね。そういう意味ではドッジボールで一度あたってももう一度内野に戻れる「2き」もってるとかと意味が近い気がする。

え? 「いっき」、「にき」とかいってたの俺の地元のローカルルールかな? たぶん漢字は「気」だろうと思ってたんだけど。

 

おわり。