映画「ブレードランナー 2049」の感想と深読み
正直僕には難しい映画だったけど面白く観られたからOK。
この記事は映画の内容に触れる鑑賞済みの方向けです。まだ観てない方はもし観たらぜひ感想を教えてください。
- 僕と「ブレードランナー」の距離感
- ビジュアルだけじゃない「2049」
- アイデンティティに飢えた僕ら
- 僕らは「遺伝子を運ぶ媒体」か「この世界の主人公」か
- 停滞する社会と、変わる主人公像
- 人工知能ヒロイン「ジョイ」について
- 「記憶」について思うこと
本当に長い映画だった。一回目見たときは我慢できずにエンドロールでトイレに駆け込んだ。明るくならないうちに席を立った映画は記憶にある限り初めてだ。
僕と「ブレードランナー」の距離感
正直前作はそこまで好きではない。というかいまいち面白さがわからない。
いわゆる「エポックメイキング」的な名作映画にありがちなのが、まあ当時はすごかったんだろうけど、今観てもよくわかんないやってやつ。ブレードランナーはまさにそれだった。
ただ近未来の荒廃した世界をイメージさせる映像表現は今観ても新鮮に感じた。
で、「2049」を観に行く前に前作を復習した後も、申し訳ないけどその感想はほとんど変わらなかった。誰に申し訳ないのかわからないけど。
ビジュアルだけじゃない「2049」
今作「2049」では、前作の禍々しさとでもいうべき雰囲気は姿を消して、退廃的な中にもどこか小綺麗さを感じさせる空間ばかり。30年という絶妙な時間経過ではそんなものなのかもしれないけど、映像的には続編っていう感じはあんましなかった。
まあそこは端から僕の興味の対象外ではあったからどうでもいい。
むしろ、前作の「ブレードランナーらしさ」みたいなものへの思い入れがなかったことで、世界観こそが魅力だという先入観のあった「ブレードランナー」の物語に深く目を向けることができたかもしれない。
以下、レビューというより感想、考察というより深読み。
アイデンティティに飢えた僕ら
本作の主人公「K」は、自分の出生の理由と生きる意味をつかみ取った......かのように見えたが、実際にはそれは期待を裏切るものだった。
「ブレードランナー 2049」の最大のテーマはここだろう。
「自分は何のために生まれてきたのか」とか考えちゃうのは僕だけじゃないと思う。
でも残念ながら、何か大きな意味をもって生まれてきた人間なんてほとんどいないはず。
レプリカントは、誰かの都合で生み出されて、誰かの筋書きによって行動する。けど人間も同じことじゃないんだろうか。
僕らだって自分の意志で生まれてきたわけじゃない。学校や勤め先を自分で選んでいる...気がするけれど本当のところはどうだろう。限られた情報しかないなかで自分は本当に主体的な選択をしてきたか。
逆説的ではあるけれど、誰の役にも立っていないことこそが、誰かに操られていないことを証明するかもしれない。でもだとしたら僕らが生まれた意味は一体何だ?
僕らは「遺伝子を運ぶ媒体」か「この世界の主人公」か
よく知らないけど、僕は自己啓発とかってあんま好きじゃない。要は思考を単純化させるわけでしょ。いやよく知らないけど。
僕たち人間は、プログラムに従って遺伝子を運ぶ媒体に過ぎないのか、それとも一人一人意味を持って生まれてきたこの世界の主人公なのか。
結局のところ答えは、その二つの間か、あるいは全く違うベクトルのどこかにあるか、とにかくそんな単純な答えは存在しないんだろう。
恋愛はプログラムか
「愛することを仕組まれていたのでは?」というデッカードが答えに窮した問いは、人間にも通じるものだと思う。
一緒にいるだけで無上の幸せを感じる異性も、単に自分の持っていない遺伝子情報の持ち主だから惹かれているだけなのかもしれない。
だからといってその気持ちにケチがつくわけでもない。
あくまでその相手は代わりのいないオリジナルだから。(と思う一方で、男の身に生まれてこの有り余る性欲を身に湛えていると、できる限り多くの子孫を残すことこそ自分が生まれた最大の意味なのではと時々考えてしまうけれど。)
でもこのどっちつかず感こそが、人間が持つ理性と野生のぶつかりありであり、人間を人間たらしめている一要素なのかもしれない。
空虚な「物語の主人公達」の行き先
昨年2016年は日本だけでなく世界中で、根の深い憎しみが大きな形になって表れたり、ろくでもない英雄気取りや思い上がりが誰かを傷つけたりと、悲しい出来事が数多く起きた年だった。
排外的なナショナリズムや狂信的な宗教原理主義、そして優生思想。形は違えどそこに通底するのは、他者への偏狭さや自己中心主義だった。
そして気になるのは、そのどれもに自分の思想や行為に「酔いしれた」感を漂わせていたことだ。あたかも自分(達)が「この世界の主人公」であるとでもいうように。
自分は不当に虐げられている...そんな空虚な「物語」から抜け出せない「主人公達」は「敵」を作り出して戦い始める。
「自分は何かを変えられる」と、虚無感から思わず飛び付いたそのアイデンティティも、実は誰かに押し付けられたものかもしれない。あるいは単なる妄想の産物かもしれない。
他者への共感を無くしたとき、過剰な自己愛は独善へ、独善は排除へと形を変える。
僕たちは心無い「レプリカント」になってはいないだろうか。
主人公「K」が、自分のアイデンティティを戦争の中に見出さなかった(見出すことができなかった)ことは、とても興味深かった。
Kがあのままレジスタンスの指導者になってたら喜び勇んで人間を殺しまくっただろうし、あの自称想像力に溢れた女性なら争いではなく対話の道を模索するのではと思う。
個人的にはやはり「俺たちが正義!悪い奴は倒せ!」みたいなアメコミ映画とは別の次元でもお金をかけた映画を沢山作ってほしい気持ちがある。
停滞する社会と、変わる主人公像
前作と今回の主人公像を比較してみると、「『ヒーロー」になれた親世代」と「何物にもなれない子世代」という対比が存在する。と思うのは僕だけかもしれないが、とりあえず書く。
また、前作と同様に今作の主人公も殺しを生業としているが、そのスタイルには大きな違いがあった。
前作の主人公は、基本的にスマートな戦い方で、比較的あっさり「人」を殺していた印象がある。それに対して、今作の主人公の戦いは徹底的に泥臭く、歯切れの悪い殺し方をしていたのが印象的だった。
無限の経済成長というポジティブな「物語」を失って閉塞した社会においては、楽観的なサクセスストーリーは説得力を失ってしまったのかもしれない。
「ひょんなこと」から英雄になるのと、泥臭く生きた結果何者にもなれず生涯を終える。どっちがリアルかなんて考えるまでもない。
30年前の感覚なんて知らないし、景気も知ったこっちゃないけど、少なくとも今よりは楽観的な世界だったんじゃないだろうか。いや冷戦下だしそんなことないか。なんかめんどいから考えるのやめよう。
イケイケどんどんでやってきた親世代のツケを清算するっていう物語は、タイトルを出すとネタバレになるから言わないけど、今年観た他の作品にもあった。それともこの観方は日本的すぎるかな?
まあ同じことやってても新鮮味がないからっていうメタ的な観方もできるけどさ。自分の考えに引きつけて書くのがフィクションの感想だし、だいたいブログってそういうものだと思う。
人工知能ヒロイン「ジョイ」について
「ブレードランナー」は、単なるプログラムの産物であっても人格がある以上尊いもの、というある種温かな目線を持った映画だと思う。
ただ、AIであるヒロイン「ジョイ」の描かれ方については、どこか冷ややかなものを感じたのは僕だけだろうか。
一途で可愛らしく、そして儚さを持ったヒロインであったことは間違いないし、僕もあれが買えるなら2万まで出してもいい。いやほんと可愛かった。あざとすぎるくらいに。
だが、考えてもみて欲しい。
1人部屋の中で孤独に過ごす主人公に甘い言葉をもって、自分は特別な存在であると思い込ませたのは誰だったか。
主人公の孤独を埋めることで皮肉にもその孤独をより深めていたのは誰だったか。
「ジョー」という新たな名前と人格さえもを与えようとしたのは何だったのか。
これらを踏まえると、「ジョイ」の描かれ方にネガティブさを覚えることは間違ってはいないのではと思う。
そしてこの考えは、彼女の退場後、前作ヒロイン「レイチェル」の存在のオリジナリティーが再確認されたことで強まった。
これは単なる文明批判というよりも、、僕らをプログラムされた温もりで優しく迎えてくれる愛しきインターネットと、その愛に溺れ自分に同調する意見に囲まれがちな僕らのメタファーかもしれない。考えすぎかもしれない。
書くところがなかったからここに書くけど、上で触れた前作との雰囲気の違いも時代の空気感によるものかもしれない。
前作今作ともに、過度な科学技術がもたらす弊害が色濃く感じられるけれど、前作ではよりストレートな禍々しさが漂っていたのに対して、今作では不気味な程の清潔感がある空間が多く登場した。この辺に、科学がもたらすリスクに対する感覚の変化が反映されているのかもしれない。
「記憶」について思うこと
蛇足になるかもしれないけど、記憶について個人的な話をしたい。
僕はたびたびデジャブを感じることがある。実際には見たことがないはずの風景に既視感を覚えることがあるのだ。実際今日も一度経験した。
なにもオカルト的な話がしたいわけではなくて、なんとなく疑問に思うことについて言葉にしてみたい。
実際は見たことないのに見たことあるって思うのは、見たことがあるっていう過去の記憶を脳が作り出してるんだと思う。それは脳が勝手に存在しない過去を作り出してることになる。となると、今過去として認識している記憶も、現実に起きたことだとは確信できなくなる。
言ってること伝わるかな?笑
今空腹で一人キーボードを叩いている僕と、今日の昼にたらふくラーメンを食べた僕は本当に同じ僕なのか。
流石にそれは冗談にしても、記憶っていうのは案外頼りなくて、信頼できないものなのかもしれない。
実際、このブログで一つの記事を書きあげるころになると、いつも思う。
この駄文の数々は、果たして本当に僕が書いたものなんだろうか?
おわり。