いま読み直す【小説『動物農場 おとぎばなし』感想】
新訳も出たジョージ・オーウェルの『動物農場』。普遍的なメッセージを放つ作品から、いま学ぶことは何か。
あらすじ(なんとなく140字以内を目指した)
「すべての動物は平等である」――農場主を追い出した動物たちは「動物農場」を設立。しかし知力に優れたブタは徐々にその特権を拡大していく。やがて階級が生まれ、搾取が始まる。暴走する権力と、甘受する大衆。堕落する理想と、抑圧される自由。崇高な理念の先にあったのはディストピアだった…
人間の支配から抜け出し、「平等」を謳った農場が、結局は独裁的な恐怖政治に堕していく様を描いた作品、『動物農場 おとぎばなし』
今年新訳が出版されたことを知って読み直したくなり、本棚から引っ張り出してきた。すると、以前読んだ時とはまた少し違った感想を抱いたので書く。
その感想の違いは、前回読んだ際には無かった、より現在的な問題意識によるものだと思う。そしてもちろん、おとぎ話『動物農場』の色褪せない寓話性あってのものでもある。
ちなみに僕が持っているのはこのバージョン。2009年初版なのでそこまで古くもなっていないはずなんだけど、今色々あってオーウェル作品の人気が上がってるらしいからね。
最新版はこれ。 目つきの悪いブタが表紙。
作品のメッセージを考える
『動物農場』に込められたメッセージを読み解く。
構成としては、まず筆者自身が述べるこの作品の意図に触れ、次に僕の個人的な解釈を書く。
ソ連と権力への批判
ここでは、作者がこの作品に込めた意図について書く。
『動物農場』は、かつて理想郷として見られたソ連の腐敗を暴く意図をもって執筆された作品だ。事実、そのストーリーは史実に基づいたものになっている。
このことについて、筆者ジョージ・オーウェル自身が、「ほとんどだれにでも簡単に理解できて、多国語に簡単に翻訳できるような物語の形でソヴィエト神話を暴露すること」が執筆の動機であったと述べている。*1
そのことがサブタイトルの「おとぎばなし」(原題では "A Fairy Story")の意味でもある。
ところで、このサブタイトルは省略されることが多かったという。その理由として、訳者である川端康夫氏は巻末の解説において、オーウェル自身が社会主義者でありながら、冷戦初期には反共宣伝に利用されたためと分析している。*2
たしかに「おとぎばなし」という語にはどこか揶揄するような響きがあるし、説得力に欠ける気がする。
"A Fairy Story" について、子供向けの読み物である「おとぎ話」や「童話」というよりも、日本語としては「寓話」という表現の方が近い。
上述の通り、ストーリーは史実をもとにしているものの、ソ連の歴史を知らなくとも ("Fairy Story" の柔らかい語り口にも助けられて)十分にその意図を読み取ることができる。
そこには、ソ連という個別的な権力だけに止まらない、あらゆる権力が持つ暴力性を描き出す『動物農場』の寓話性がある。
大衆批判としての『動物農場』
ここでは、僕が個人的に考える作品のメッセージについて書く。
いちおう断っておくが、僕は原著にあたったわけではなく一つの訳版を読んだに過ぎないず、作者の本来的な意図を全て読み取れたとは思っていないのであしからず。
今回読み直して感じたことは、『動物農場』は、権力批判であると同時に、それの暴走を甘んじて受け入れる盲目的な大衆への警鐘としても読むことができる、ということだ。
以前読んだ際には、ほとんどの動物たちに対して同情心のような気持ちを抱いていた。ブタ以外の多くの動物たちは、欲深いブタたちによって搾取される罪のない無垢な被害者という印象だった。
だが、今回読み直してみると、僕は彼らに対して、いらだちや呆れに似た思いを抱いていることに気付いた。
彼らはまるで疑おうとしない、いや正確にいえば、そもそも疑うということを知らないし、そこまでの知能を持ち合わせてもいないのだ。このことにより、ブタが支配階級となることは(彼らが利己主義に走ることは問題だとしても)止むを得ないと感じられる。独裁を招き、既得権益の基礎を作るのは結局、無批判的な大衆なのかもしれない。
支配者と被支配者の非対称性が大きければ大きいほど、マキャベリズム的な君主論が現実味を帯びてくる。君主が絶対的な力を持つ前近代的な国家システムは、必ずしも批判されるべきものではなく、当時においては国家の利益を守る最も効率的な形態だったのではないだろうか。そして、近代に入って被支配者の側が力や情報を得るにつれて、傾いていた権力の針がそちらに向かって倒れていくと考える方が自然な気がする。
このことに関連して、「教える」ことの難しさを感じている。人が誰かに何かを教えるとき、そこには明らかな序列が生まれる。「教える」ということを仕事にした人なら共感できると思うが、相手が教えたことをあまりに理解できないと感じたとき、「なぜこんなことも分からないのか」という思いを抱いてしまうことがある。それが「どうせできない」という見下しになってしまうと、自主性に任せるのではなく強制、「黙ってやらせる」方が手っ取り早いとなってしまう。そして、教わる側も黙って言われたことに従っている方が効率的という時もあるにはある気がするのだ。
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結局のところ、「健全な権力」というものがあるのならば、(比較的)利他心を持った支配層と、疑義心を忘れない知的な被支配層の両立がその条件ということになる。
このことから僕が考えるのは、オーウェルの全方位的な批判精神だ。彼は、権力と大衆、そのどちらの側にも立たず、両者を批判的な目で見つめていたのではないだろうか。
現代性をもった描写
今回、『動物農場』を読み直して、もう一つ気になったところがある。
それは、どこか現代に通じるように思える描写の数々だ。そもそも普遍性を持った寓話として書かれた作品なのだから、いつ読んでも何か感じるはずではあるし、前回の読みが雑だったとも言える。
まあいいや、特に気になった3つを書く。
歪められる「ことば」
作中には、農場の原理としての「動物主義」、およびそれを要約したルール、「七戒」が登場する。それらは、旧支配者である人間と動物を区別し、動物は皆平等という精神に則ったものだった。だがそれらは全て、ブタの特権化に伴い形骸化していく。
例えば、「動物は酒を飲むべからず」という文言は、ブタが飲酒の楽しみを覚えた後には、こう変更される。「動物は酒を飲むべからず、過度には」
そして最後には、「平等」という動物農場の根幹になることばさえも無意味化されてしまう。
ルールとは誰のためのものか? それは、真面目に生きている者のためだ。正直者がバカを見ないためにルールがある。(三大義務の一つを怠っている僕が言うのもおかしいが)
ルールは、為政者も一般人も含む「社会」のためのものだ。だから、為政者が自身の都合でルールを変更することには問題がある。(僕ら日本人は特に大きな反省を抱いている。)
これは現代の自由主義国家においても他人事ではない。
先の集団的自衛権の行使容認は、それまでの憲法解釈を大きく転換する取り決めであることは間違いない。(今ここで、この法制の内容的な是非を問いたいわけではなくあくまで形式的な部分の話だ)
自衛隊の南スーダンでのPKO活動の問題もそうだ。そこにおいて「戦闘」があったかどうかが問題なのに、「ことば」の問題になった議論はどこか空を切る。(そしてうやむやになろうとしている)
僕たちがいま生きているのは農場ではない、法が国を縛る法治国家だ。その前提が崩れされるのを黙って見ているナイーブな家畜でいいのだろうか? オーウェルは重たい問いを投げかけてきている。
どこへも連れていかない「口車」
今回特に気になったキャラクターが、豚のスクィーラーと、大ガラスのモーゼズ。
どちらもイラっとするキャラクターだな、くらいにしか思っていなかったがどちらも最近の問題意識に絡んできたので書く。
スクィーラーにみる「オルタナティブ・ファクト」
スクィーラーは、豚が権力を握っていく過程でプロパガンディストの役割を果たす。
彼は巧みな演説術をもって権威を高めたり、ルールを改竄したり、それらしい数値を用いて他の動物たちを惑わせる。そして、彼が口にする農場主の支配下に戻りたくないという思いが、動物たちの現状を疑う気持ちを削いでいく。
その手法には、絶対的な事実ではなく、「都合のいいもう一つの事実」を信じ込ませて人々をコントロールしようという為政者の恣意が存在している。
モーゼズにみる「ポスト真実」の感情論
上で書いた「オルタナティブ・ファクト」と近い文脈で用いられている印象のある「ポスト真実」。一般に為政者によるものとされる前者に対して、後者は社会に共有される感覚ということができると僕は考えている。(あくまで個人的な使い分けなので悪しからず)
オルタナファクトが上からの動きであるのに対して、ポスト真実が下からの動きだと言うこともできる。この二つが組み合わさるからヤバいのだ。
少し前から、「自分は不当に虐げられている」だとか、「自分は救われるべきだ」という言説、あるいはそういった感覚を前提とした言説を耳にすることが増えた気がしていた。
でも『動物農場』を読むと、そういった「ここではないどこかに『楽園』がある」というような幻想も、実は普遍的なものだったのかもしれないと思えてくる。
大ガラスのモーゼズは、世界のどこかに「氷砂糖山」というパラダイスが存在すると吹聴する。彼は、動物たちが農場主の支配下にあっても、支配がブタの手に移っても同じことを言って回る。
いつも気楽で楽しいなんて人はほとんどいないし、誰もがどこか苦しんでいる。そんななか「救済」されたい気持ちから、甘い幻想にすがってしまってはいないだろうか。
(疲れてろくに推敲せず打ち込んでしまった。まあこのへんはまたどっかで書く)
反響・増幅する「主観」と排他性
ここで触れるのは、9匹の犬とひつじの群れ。彼らは独裁者とのなったブタ、ナポレオンにコントロールされ、条件反射的に敵を攻撃・妨害する。
一つの考えに囚われて、その他の意見は雑音としか思わず耳を傾けない。あるいは最初から牙をむきだして威嚇してかかる。
そんな姿勢は普遍的な人間の性なんだろうけど、やはりネットの影響は無視できないように思う。情報への接し方がより選択的になるなかで、僕らは自分と趣向の合う人間や意見のなかに閉じこもりつつある。
この問題意識は、この記事で書いたからいいか笑
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最近はエコーチェンバーと言ったりもするらしいね。
出版(表現)の自由
今日は力尽きた…笑
(編集中)
まとめ:空虚な「犯人捜し」
まとめるべきものを仕上げてないけど、強引にまとめることにする。
ジョージ・オーウェルが家畜のメタファーを通じて暴き出しものは、ソ連と言う一国家の腐敗だけではなかった。
そこに描かれたのは、人間の醜い性であり、それは政治体制や時代に関わらず僕らが上手く付き合っていかなければいけないものなんだろう。
『動物農場』を終わらせたのは誰か? 犯人捜しをしても始まらない。
僕たちはブタであり、ロバであり、鶏であり、羊でも犬でもあるんだから。
オーウェルもう一つの代表作。これも同じ理由から評価が高まってるみたいだね。
おわり。