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『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』感想と考察

原作大ファンの僕が、物語のメッセージ、メタファー、ハリポタシリーズとの共通点まで考察!

 2017/3/7更新

 

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先日観てきた映画、『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』について書く。

 

原作に登場した魔法学校の教科書であり、書籍化もされている『幻の動物とその生息地』を土台にしているこの映画。

注目すべきは、監督は「ハリーポッター」シリーズの後半4作品を監督したデイビッド・イェーツ、脚本はシリーズ原作のJ・Kローリングという点。

 

「やっちゃう?」

「絶対いけるべ?」

という企画会議での様子が透けて見える気がする。

 

 

 

映画の感想はどうか

個人的にはハリポタシリーズの大ファンなので、楽しめる部分は沢山あった。

だけど、「ハリーポッター」シリーズのファン以外には勧められない内容かな…

 

まず、雰囲気が暗い

触れ込み的に、デートとかで使いやすい雰囲気を醸してはいる。

けど、思い出してみてほしい。「ハリーポッター」の原作や映画も後半に行くにつれ暗い雰囲気になっていったことを。

 

皆さ、ハリポタっていうと「賢者の石」とか「秘密の部屋」あたりの雰囲気想像するじゃん。クリスコロンバスの、色で例えるとオレンジっぽいあの楽しげな空気ね。でも本作はあのハリポタシリーズ後半の雰囲気に近い。

 

今作も、「色んな魔法生物が出てきてワクワクするよ!」って感じだけど、それを期待していくと裏切られる可能性大。確かに映像はキレイ。でももう今時、映像美がどうとか視覚効果がどうとかそんなんで観る映画決めなくないか?笑

 

そして、説明が少ない。

人間界に暮らす主人公が魔法界にエントリーしていくところから描かれたハリポタと異なり、今作の主人公は初めから魔法使い。

そこでのしきたりや魔法について説明する仕掛けは確かに用意されているものの、親切とは言い難い。ハリポタの世界に詳しくない人がノリで観に行くと、入り込みにくいし、オチでも「は?」ってなる可能性大。

 

 

だから気になってる人はハリーポッターをしっかり予習するのをお勧めする。

こっから五部作? やる予定らしいし、ここで予習しとけば長く楽しめるかもよ?

 

 

ファン目線での感想と今後の展開について

それで、僕的には、ここからが本番。

僕は「ハリーポッター」シリーズの大ファンで、原作とかハードカバーが擦り切れるほど読んでいる。

とりあえず、グリンデルバルドとか、レストレンジとか、聞き覚えある名前が出てくるたびにテンション上がる。この筆者が付ける名前には独特のリズムがある。

 

前半部分は触れ込み通り、ファンタスティックなビーストを追いかける。

この段階では、生物多様性という、今あまり流行らないようなテーマをメインにしていくのかと思ったけど、やっぱりそんなことはなかった。

後半、話はすっかり人間主体のサスペンスドラマに。そういや思い返すとハリーポッターっていつもそうだったよね。まず謎を投げて、最後に解決っていう。いつも原作→映画の順だったから、これは新鮮ではあった。

 

今後シリーズは、オブスキュラスという抑圧された魔法力が暴発したもの、を巡ってグリンデルバルドと戦う話になるのかな?

ハリポタシリーズで登場しなかったことと整合とるために、ニュートのゴールはオブスキュラスの発生を抑止するシステムを作ることになると予想する。

あと、グリンデルバルドがレギュラーになるなら、ダンブルドアも出てくるのかな?

となると彼のグリンデルバルドに対する葛藤など、原作ではあまり深く触れられなかった部分を補完してくれそうで期待している。

 

映画『ファンタスティックビースト』を考察する

僕の考えでは、『ハリーポッター』原作には、明確なテーマが設定されており、物語中には普遍性のあるメタファーが散りばめられている。

本作も、J・Kローリングの脚本作品である以上、そういったメッセージを読みとる楽しみがあった。

この項では、本作に込められた「作者の意図」というものを解釈していく。もちろん現代文の入試問題ではないので個人的な見解として。

 

 

メッセージを読み解く

今作のメッセージを一言で表現するなら「交わる勇気」だと考えた。

 

何と交わるか?

それは、魔法生物と、マグル(ノーマジ)と、そしてオブスキュラスとも。

 

人間が得体のしれないものに対して抱く恐怖心や猜疑心は、J・Kローリングが「ハリーポッター」シリーズを通して描いてきたテーマの一つ。

それはほぼ毎学年でハリーが欠かさず抱く孤独感だったり、多くの人が名前を呼ぶことすらできない程の「例のあの人」に対する民衆が抱く恐怖だったりと、印象的な形で描かれている。

 

差別や敵意、盲目的な先入観と戦うのが「ハリーポッター」の主人公だったし、そういう意味では本シリーズもその延長線上にあるように思われる。

突然魔法界に放り込まれたハリーは先入観のない澄んだ目を持っていたから、ハーマイオニーやハグリッド、さらには屋敷しもべ妖精のような「はみ出し者」と仲良くなった。

その結果、「俺様」中心の世界を作ろうとするヴォルデモートと対決することを主体的に選び取っていった。

 

実社会でも、僕らは常に集団の中で自分が「はみ出して」いないか、「はみ出して」る奴はいないかと、神経を逆立ててる。でもそうやって人と人との差異を取り上げて作った仲間意識は脆いし、誰かを捨象する思想はきっと集団が最終的に一人になるまで続いて、永遠と人の心を蝕んでいく。僕らはどこかで世界に線を引く作業に終止符を打たなきゃいけないと思う。

 

魔法があろうがなかろうが、どんだけ力を持ってても人は自分の知識の外にあるものに恐怖を抱くんだよ。

 

真の主役は誰か?

そういう意味で、上で書いた澄んだ目を持って未知の世界に入っていった人間、今回のハリーポジションは誰か。そいつが感情移入の対象になるはずなんだけど… 

 

そう、ジェイコブ。彼は、裏の主役と言って差し支えないと思う。

ニュートが主役なのはもちろんだけど、彼は色んな意味でドラえもんであって、のび太はジェイコブだったね(何言ってんのかよくわからんけど笑)

 

で、そのジェイコブについて。

彼は、デブで、冴えない、貧しいブルーワーカー。魔法も使えない作中唯一の一般人。

自分のパン屋を開くというささやかな夢を抱いている。

1920年代のアメリカはよく知らないけど、まあおそらく普遍的に世界中ほとんどの人がこいつに感情移入するわけで、報われてほしいと願う。

で、結局は「記憶」以外の全てを手に入れる、いわばアメリカンドリームなんだけどさ。でもやっぱこれって違うよな。

きっと世界中で多くの人が、自分の理想と実際の生活のギャップに悩んで、「自分はもっと報われるべきだ」って思ってるはずなんだよ。ジェイコブはその代弁者としては失格じゃない?

 

だって、「魔法」のおかげじゃん、あいつが幸せになったの!

 

魔法でもなきゃどうにもならんのよ、それが人生。

報われるだけの人間的魅力を持っていても、現実では担保なんか出せないし、夢も叶わなけりゃ、たとえ叶ってもパン屋絶対流行んなかったじゃん!

まあご都合主義を全部批判してたら映画なんか観れないんだけだどさ。

 

 

メタファーを読み解く 

オブスキュラスとはなにか

本作のど真ん中にある謎、オブスキュラスについて考える。

抑圧された若い力の攻撃的発露ってことから考えると、恵まれない環境下で育った非行少年とかのメタファーだったりするのかな?

ニュートが最初に見っけたのってスーダンだっけ? そのことから考えると、紛争地域の少年兵とかも意識してるのかも。

あるいは、イスラム国とか宗教的な原理主義思想にのめり込む若者も世界中に増えているようだし、テロリストかもしれない。非行とかいうレベルじゃなかったしこっちかな。

本来であればどんな夢でも叶えられる子供の可能性(=「魔法」)が、歪んだ力によって押さえつけられてしまうと誰かを傷つけてしまうことがある。割としっくりくるな。

 

 

「魔法生物」にみる多様性の意識

その危険性から持ち込み禁止になっていた魔法生物も、最近特にホットな「移民」のメタファーだったりするのかもしれない。

彼らがもつ能力が主人公たちの窮地を救うという物語展開を見ても、「生物」多様性に限らない多様性の意識が見て取れる。

 

ところで、1920年代アメリカの状況はよく知らないけど、公的機関の管理職に黒人女性が登用されていたりするのは、なんともJ.K.ローリングっぽい。

「孤児」、「虐待」のモチーフや「猪突猛進で優秀、だけど頑固なヒロイン像」とかも、やっぱローリング感に溢れている。

 

「ノーマジ」と「マグル」にみる”PC” 

魔法力を持たない人間の呼称として、おそらく本作で初出であろう表現である「ノーマジ」というものがあった。

本作の舞台である、1920年代のアメリカで一般的な表現だということは読み取れたが、これと『ハリーポッター』シリーズの「マグル」表現との関係については未だに謎。

『ハリーポッター』の舞台であるイギリスとの地域的な言語表現の差なのか、あるいは時間的な差異なのか。

 

これもシリーズが進むにつれて明らかになるのではと考えているが、ここに僕は魔法界的な「ポリティカル・コレクトネス(政治的言葉遣い)」を見て取った。

ポリティカルコレクトネスとは、差別的な表現を偏見を含まない中立的な表現に改めること、あるいはその表現のことを指す。

わかりやすい例としては、アメリカでは"Indian" が "Native American" になったし、日本では「看護婦」が「看護師」になった。文化・人種的要素や、性別・職業的要素が特にポリティカルコレクトされた印象がある。「障害者」を「障碍者」や「障がい者」と表現することも最近は増えてきた。

 

(編集中)

 

まとめ

なんだか思ったことをただ書き連ねてしまったので、軽くまとめておくと、

映画としての完成度はそこまで高くないよね笑

これが流行っていくとは思えないから、打ち切られなければいいけど。笑

 

それでも、原作者はかなり風呂敷を広げるというか、ストーリーとして描かない部分も設定しているような人なので、ハリポタの世界観をさらに知るという意味では、今後が楽しみな映画だった。

ファンなら絶対に見ておきたい映画だと言っていい。

そろそろDVDが発売するのでチェックしたい。