【答えのない問に答えるということ】 民主主義とファッションについて考える。
昨今のメンズファッションブログ乱立とネットの無責任な言説に思う…
政治とファッションをテーマに、現代社会における情報との向き合い方を考える。
僕はファッションブロガーになるつもりは全くないんだけれど、自分の大事にしている分野ではあるし、少し書きたいこともあるのでいくつか記事を書いていきます。
- 序文:ネットに渦巻き、そして溢れ出す無責任
- 増加するファッション指南と収斂するその解法
- 「変革」を求めて藁にすがる人々 ~現代とポピュリズムの親和性~
- ポピュリズムの弊害 ~利己的な「変革」が奪うもの~
- フォローするだけの大衆になるな
- 難問を前に立ち止まれるか
- 「最速でオシャレになる方法」(あるとすれば)
序文:ネットに渦巻き、そして溢れ出す無責任
最近、ファッションに限らず、ネット上に極端な主張、無責任な言説が増えすぎているように感じる。
僕もこのブログを書き始めたばかりだけれど、見出しのつけ方やリード文などの書き方が、ネットでよく見る表現から無意識に影響を受けていることに気付き,ハッとすることがあった。
よく見る奴だと、「これだけで十分」とか「たった3つの方法」とかで本当に解決したことある?笑
「それくらいのことでゴチャゴチャ言うなよ。たかがネットだろ?」という人もいるかもしれない。
でも問題は、そんな表現だけの話に止まらないと僕は思う。
誰もがネットに触れるときには、「明確な答え」を「即答」してほしい、という思いを抱いているはずだ。それがネットの最も便利な部分だし当然と言えば当然のことだ。
ただ、その気持ちにつけ込んだ情報発信が多すぎないだろうか。
ちっとも網羅的でない情報をあたかも唯一の情報であるかのように伝えたり、あるいはまったく無責任な情報を伝えてみたり。
先のDeNAのまとめサイト問題は、ネットのそんな綻びが表れてきた一つの形だろう。
マスメディアへの不信感とネットメディアの躍進が、相互に作用しながら生じてきたことは間違いないと思うのだけれど、これではネットがどんどんつまらないく、信用できないものになっていってしまうんじゃないかと不安でならない。
そして問題はネットというレベルから溢れ出し、現実の社会にも入り込みつつある。
今日のテーマはそういう話。
増加するファッション指南と収斂するその解法
少し前から、メンズファッションの世界で注目を集めている方がいる。
「最速でオシャレになる」を謳う、そのブロガー(メルマガ―?)の方の主張はざっくりまとめると以下のようになる。
① ファッションは論理的に説明でき、絶対的な法則がある。
②多くのブランドやショップ店員、雑誌は、独自の利益構造で動いており、それらの話では決してオシャレになれない。
③ 自分だけがその問題から免れており、解法を知っている。
多くの人に受け入れられやすい服装や、スタイルを良く見せるテクニックは実際ある程度存在する。
でもそれは多くの雑誌でも紹介されている。
では、なぜこの方が支持を受けたのか。
それはひとえに、ファッションに苦手意識をもった人達に刺さったからだろう。
雑誌を見ても載っているのは高いアイテムばかりだから嫌、服屋に行くのも気が進まない。そんな人達。
そういった悩みを抱く人はきっと、雑誌の定期購読者数の何倍、何十倍もいるのだろう。
「ファッション」や「オシャレ」という抽象的な領域に対して、もっとわかりやすく!もっと具体的に!という要求が生まれてくるのは自然なことだ。
確かにファッション誌は、多くの情報が無料で手に入る現代においては、お金を払う割には不親切な媒体だと感じる部分もあるだろう。
また、そのジャンル的にも、定期刊行という性質的にも、情報を体系的に伝えることが難しいという点も、大きな要素だろう。
あるいは、それ自体が「消費」でありながら、更なる「消費」を促すメディアという特質が違和感を抱かせるのかもしれない。
そんな流れを受けて、このブロガーの方に強く影響を受けたと思われるメンズファッションサイトが乱立しているようだ。
服というのは皆が身につけるものだし、それだけ悩む人が多いのも納得できる。
僕はそういった悩みを抱く人の気持ちにも共感するし、この記事で、そのブロガーの方を批判する気も毛頭ない。(大事なことなので太字)
むしろ、ファッションを少しでも取っつきやすいものにしようという気概には心から敬意を抱いている。
(本当にメンズファッションを変えたいというなら全てオープンにやるべきだとは思うけど、多少のインセンティブは必要だしね)
問題視しているのは、こういった言説の質や良し悪しではなく、それがここまで受け入れられてしまう今の社会の実情の方だ。
少し抽象的な言い方をしすぎたかもしれない。
僕が言いたいのはこういうことだ。
「皆、わかりやすい答えに飛びつきすぎじゃないか?」
「変革」を求めて藁にすがる人々 ~現代とポピュリズムの親和性~
上述の某ブロガーの方の手法は、ポピュリズム政治家のそれとの間に多くの共通点を見いだすことができる。
「ポピュリズム(大衆迎合)」という言葉は最近またよく聞くようになってきた。
人々の政治不信が悪い意味で常に高水準に保たれている現代では、ひっきりなしに登場してくる。
先のトランプ旋風の前にも大きく扱われたのは、橋下徹氏かな。
ポピュリズムに対しては当然賛否両論あるが、否定的な見方が多い割に、その支持層も多くいるという状況が常だ。
支持層は幅広く情報収集をしない人々だし、否定的な主張に耳を貸しているように見える人々の多くが、実は政治的に無関心な層だというのは体感的すぎる印象だろうか。
その影響力に差こそあれど、現代において注目を集める政治家というのは、多かれ少なかれ常にこの「ポピュリスト」的な気質を持っていると僕は考える。
特に、こういった人がいるかどうかで選挙の盛り上がりはかなりの程度変わってくるとように思う。
僕が考えるその「ポピュリズム」的な性質が、以下の3つ。
① 自身の環境に不満を抱く人々をターゲティングすること
② 既存権威を閉塞感の原因として敵視し、変革を主張すること
③ 聞いていて心地よい明快で単純な論理
これらの要素について、順番に考察していく。
① 自身の環境に不満を抱く人々をターゲティングすること
まずポピュリズムとはその名の通り大衆に迎合する必要がある。
だから、政治に自分の意見が反映されていないという層に訴求していくことになる。
これについては、民主主義の自然な摂理であり、おおむね肯定的に評価していい部分だろう。
某ブロガーの例でいえば、服装に悩みつつもどうしてよいかわからなかった人々にターゲティングしたことがそれにあたる。
② 既存権威を閉塞感の原因として敵視し、変革を主張すること
今の不条理を作り出した責任は既存権威にあるという主張だ。「戦う個人」や「孤独なカリスマ」というイメージは大衆の期待感を高める。
例えば、今年都知事に就任した小池氏が、党の推薦を受けず出馬して、東京都連を敵視することで、「既存権威vs個人」という構図を演出したことは記憶に新しい。
次期米国大統領のトランプ氏でいえば、政治経験がないことがしがらみに囚われないとして、逆に強みとなっていたという。
そして、某ブロガーは、オシャレはユニクロなどのファストファッションで十分であり、雑誌やブランドはあなたをオシャレにしないと訴えた。
③ 聞いていて心地よい明快で単純な論理
ここの切れ味がそのポピュリストの実力と言っても過言ではない。
どれだけその言葉で人々を気持ち良くできるか。どれだけこいつは違うと思ってもらえるか。
そのためにはできる限り、単純で明快、直感的な言葉であるほど良い。
「この国をもう一度グレートに」
「主権を取り戻そう」
「オシャレには法則がある」
どれも甘く、魅力的な言葉だ。
全てのメディアはあくまで「媒体」なわけで、既存の情報を選択、序列化して伝えるだけだから、キャッチーであればあるほど良い。
そして特に現代では、情報が雪だるま式に拡散されていく。(SNSのバズがいい例)
この傾向が、ネットにおける極端な言説の蔓延を助長していることは間違いない。
人々が知りたいことを知るために行う「検索」という行為に先回りする「ブログ」の存在は、極めて大衆迎合的だ。
誰かが悩んでいる問題の答えや知りたがっている情報を手軽に提供する。時には根本的な解決でなくとも構わない。
ブロガーは皆、多かれ少なかれポピュリストを志向しているのだ。
上述のファッションブロガーの話に戻れば、今や高級ブランドとの共作アイテムを発売してみたり、あれほど批判していた雑誌に連載を持っていたりと大忙しだ。
これはカリスマが既存権威に取り込まれてしまった例だろう。
こうなれば実はまだいい方なのかもしれない。
結局のところ、何も変わっていないのだから。
ポピュリズムの弊害 ~利己的な「変革」が奪うもの~
話を政治に戻そう。
「変革」とは、「破壊」し、「再構築」する行為だ。
多くのポピュリストが主張する「変革」も、その例に漏れない。
だが、忘れてはならない。
何かを決定する行為の裏には、常に誰かの不利益を生む可能性があるし、それによって失われるものが必ず存在する。
あらゆる意思決定がそうであるように、政治において絶対的な正解などあるわけがないのだ。
しかし、それでも決定しなければならない以上、こぼれ落ちたものへの配慮を忘れてはならない。
常に全体の利益を考える視点を持たなければ、いつも誰かを排除しながらでしか幸福を生み出せなくなってしまう。
ベンサムの言葉である「最大多数の最大幸福」は、意思決定の際の大義となり得る。
確かに、より多くの人間の幸福を志向する論理は、極めて合理的で納得感がある。
だが、数の論理だけに囚われて話し合いを疎かにすることは、幸福というパイの分け方に固執することであり、その絶対量を増やす議論への流れを阻害してしまう。
民主主義は最も「マシ」な政治システムだと言ったのはチャーチルだったか。
民主主義とは単なる多数決ではなく、違いを前提に話し合い、合意を目指す仕組みだ。
だから、その上に成り立つ、現在の政治や社会とは、これまでの合意の積み重ねそのものだ。
もちろん過ちを犯すことも少なくないし、問題点の方ばかり目立ってしまう。
それでも、この前提を壊してしまっては全体の利益を考えることなどできなくなってしまう。
民主主義は、矛盾があればそれを変えていく、自浄作用をその内に備えたシステムだ。それをうまく使いこなさなければならない。
勉強でもビジネスでも普段の生活でも、何か問題が生じたとき、僕らは決まってその根を絶とうとする。
問題を分解して原因を特定するという合理的思考法は近代の偉大な発明だけれど、それをうまく使えている人はとても少ない。
特に政治の問題になると、僕たちはどこか反発的に物事を考えてしまいがちだ。
例えば、先の英国EU離脱の国民投票。
EU加盟国でいることにデメリットが生じてきたのなら、まずその原因を特定して取り除く(あるいは緩和する)ことを考えるべきだ。
(学校でちょっといじめられたからといって、すぐに転校する人はいないだろう。まずはどうしたらいじめられないか、あるいは、どうやっていじめっ子とうまく付き合っていくかを考えるはずだ)←さすがに例が極端すぎたかな笑
何かを変革をする際には、その変化が解決する問題や、もたらしてくれる効用だけでなく、それが新たに生じさせる問題も勘定に入れる必要がある。
民主主義は、意見を異にする者同士が分かり合うことを前提に成り立っており、議論によって皆の幸福を実現する可能性を持った、最も「マシ」な政治体制だ。
だがそれが単なる多数決に堕したとき、さも大義であるかのように誰かの不幸を生み出したり、それまで丁寧に築き上げてきた合意を一時の勢いで破壊してしまう危険性をも孕んでいる。
民主主義は、そこに参画する人々が利己主義を捨て、それを支えようとする意識を共有することで初めて健全に機能する。
しかし、ポピュリズムは、常に多数者に迎合することで、少数者の利益をその視点から排除してしまう。
それどころか、それまで意識されなかった多数者と少数者の区別を新たに作り出し、強引に数の論理を生み出してしまうことすら稀ではない。
(2016年よく耳にした「サイレントマジョリティー」という言葉が、僕はあまり好きではない。アイドルにそれを言わせるのもまた一層。)
そして、その数の論理をもって本来なされるべき健全な議論を押し流してしまう。
これがポピュリズムの弊害であり、民主主義が抱える最大の陥穽ともいえる。
フォローするだけの大衆になるな
いま件のブロガーの方には「〇〇チルドレン」と自称するフォロワーが多くいるという。
この点も、ポピュリストの要素といえば思い当たる例も多いだろう。
ただ、この方の発言が誰かを傷つけることはないだろうし、むしろ多くの人が自信を持つきっかけにはなっていると思う。(外から見ていて違和感を抱くことがあったとしても)
ただ、重要なのはフォロワーとしての心構えだ。
ファッションに普遍的な法則などあるはずはないのだから、それに従って手に入るのは、オシャレの「一つの形」に過ぎない。
いくつかのファッションから帰納的に共通点を導くことができたとしても、ファッションを演繹的に考えることなどできるはずがない。
そもそも、ファッションにおいて「似合うかどうか」という個人的要素を捨象した絶対的なものが存在するわけがない。
100歩譲って絶対的な法則があったとするならば、毎週のメルマガのために大事なお金を払う必要などないはずだ。
結局のところ、この先多くの人がこの方に対して求めることは、ファッションアイテムの価格帯別のレビューに過ぎないのだろう。
自分で選択をすることが不安な人の背中を押してあげたり、あるいは一から手取り足取りコーディネートしてあげること。
そういった取り組みはこれまで雑誌やブランド側の既存媒体が適切に行ってこなかった(あるいは適切にリーチできなかった)部分だから。
オススメの商品は何か、何故それが良いのか、そして、それに似た安価なアイテムは何か。
それは多くの人が求めている情報だろう。僕だってぜひとも知りたい。
ただ、それは結局のところ「オシャレになる方法」ではなく「オシャレなアイテムの知識」に過ぎない。
再生産性のない知識を身に着けることは、オシャレという「能力」を身に着けるうえではむしろ非効率ではないのか。
それどころか、誰かのお墨付きなしでは選択できなかったり、限られた基準に固執してしまうという視野狭窄に陥りはしないだろうか。
ネットのあらゆる「レビュー」だってそうだ。皆選択の時には何か後押しが欲しい。
でも結局それは、自分自身の価値判断を放棄し、別の新たな権威を仕立て上げているだけな気もする。
人間の持つサドマゾ的な性質は、常に追従する存在を求めるということは歴史をみればわかるけれども。
難問を前に立ち止まれるか
本来、何度も失敗を繰り返して、情報や経験を蓄積することで体感的に身に着けていた「オシャレ」という抽象的な基準は、明快で即座の解答を求める現代では既に時代遅れなのかもしれない。
僕たちは、いまや知りたい情報には指先一つですぐにアクセスできるようになっている。
それでどこか万能感を得る一方で、知りたい情報以外には目を向けにくくなってはいないだろうか。
あらゆるメディアは、単なる「媒体」であり、既存の情報の取捨選択を行なっているに過ぎない。
全ての面で一次情報に当たっていれば限りはないから、僕らはどこかでメディアに頼らざるを得ない。
そんな状況では、一度何かを権威づけてしまえば、そこから逃れることが難しくなってしまう。
また、自分にとって聞こえの良い情報や人間だけに囲われた状況は、自分を相対化することも困難にしてしまう。
ましてや、「媒体」それ自体を権威づけてしまえば、自分自身で考えているつもりで実は何も考えていない「大衆」に成り下がることになる。
そして現代の大衆は、自分の周囲を都合の良い情報で取り囲み、「サイレントマジョリティー」や「正しきマイノリティー」と自認する。
それは、複雑で、明確な答えなど存在しない、それでも答えを出さねばならない難問に背を向け、楽な方へと逃げる行為に他ならない。
そんな状況は、あくまでファッションの話に留めておかなければならない。
すぐに解決を求めるあまり、話し合いを疎かにしたり、聞こえの良い単純な論理に惑わされてはならないのだ。
盲目な大衆がひとたび政治の領域に現れれば、それは無垢な志から誰かを傷つける「ナイーブな加害者」と成り得ることを、肝に銘じる必要がある。
これはあらゆる問題に言えることだが、あえて時事的な話をするのならば、今後日本では改憲論議が本格化していくことが予想される。
憲法改正に関していえば、日本では左右両派ともにポピュリズム的な原理が支配している。
そんななか、何を変えるべきで、何を守るべきなのか。僕たちは耳を澄ませ、自分の頭で考え続ける必要がある。
世界で大衆迎合の嵐が吹き荒れ、ネット上には無責任な言説が蔓延する。
そんな今だからこそ、本来は答えのないはずの問いに答えることの難しさについて、もう一度しっかり考える時なのかもしれない。
たかが服のことではなく、話は自分の国の未来を決める問題なのだから。
「最速でオシャレになる方法」(あるとすれば)
僕が考える最速で「オシャレになる方法」は雑誌かな。
結局ファッションって、インプットと試行錯誤が大半だから、変に近道しようとするよりこっちのが良いと思う。
そもそもファッション誌ディスってる人で一度でも買ったことある人を僕は見たことない。
季節の変わり目はどの雑誌も力入れるし、一冊だけでもかなりの情報量得られるから一冊手元に置いておいても損はないはず。
あとは、大手のセレクトショップに通うってのもあるかも。一番流行がわかりやすい形で現われてくるから。別に買わなくてもいいから、見てみるだけで違うと思う。