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『シンゴジラ』感想・考察 巨大化を続けたゴジラは遂に、日本の中心に鎮座した

高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉が決まったことを受けて、夏に観た「シンゴジラ」について書く。

周囲では、4Dで鑑賞すると石原さとみの匂いがするのではと噂になっていたが、僕は2Dで鑑賞。

 

2017/3/23更新

記事がバックグラウンドでよくわからないことになって、途中で切れた状態で表示されてたみたいだ。本当に申し訳ない。

 

ゴジラー日本人と核の歴史

久々の「ゴジラ」映画なので、まずはその歴史について簡単に触れようと思う。

ゴジラ映画の歴史は、日本人と原子力の関係性の歴史そのものと言っていい。

これまでゴジラはどのように描かれてきたか、その歴史をざっくりとみていく。

 

 

第1作「ゴジラ」をざっくりと 

1954年公開の第一作「ゴジラ」は、ビキニ環礁で行われた水爆実験に日本の漁船が巻き込まれた第五福竜丸事件に着想を得て制作された。第一作の内容をものすごく雑にまとめると、

太古の怪獣ゴジラ、水爆実験で叩き起こされ激怒、東京に上陸して破壊の限りを尽くす。 

人間、対抗するも全く歯が立たずフルボッコ。

一人の科学者、核以上の凄い兵器を制作、その作成方法を明かすことなく自らの命と引き換えにゴジラを倒す。 

要は、人間が呼び起こした怪物によってしっぺ返しを食らい、その犠牲を教訓にする

という感じ。(本当、ファンの方にはごめんなさい)

日本映画史に残る名作であることは間違いないので、自分で観てみることをお勧めする。

マスコット化するゴジラ 

その後、シリーズが続き、キャラクターとしてのゴジラが人気を博すにつれ、様々な設定で映画が製作されるのだが、核の恐怖に由来するオリジナルのゴジラ像は次第に薄れていった。

人間の味方になって宇宙から来た悪の怪獣と戦ったり、怪獣ランドとかいうとこに囲われてたこともあったような。70年代の作品ではゴジラがまるで人類のお雇い怪獣となっていることもある。

この辺、シリーズとか色々あるし、詳しい人には本当に怒られそうだからテキトーなことは言いたくないんだけど、 ゴジラがキャラとして人々に愛されてしまったことや、東宝の看板作品になってしまったことも、反核映画としてのゴジラのアイデンティティ崩壊を招いた理由だと思う。

それでも、ゴジラの描かれ方は原子力への観方そのものを強く反映しているんだろう。 本来、核の象徴であったゴジラが人類の味方になるストーリーが自然に受け入れられてしまったことが、その一番の証左だろう。

原子力の脅威が叫ばれればゴジラは人類の敵として出現するし、原子力エネルギーの有用性が叫ばれればゴジラは人類の味方として現れる傾向は確かにあったと思う。(そして核への関心が薄い時代には意味不明な設定のゴジラが生まれた)

大げさに言えば、歴代のゴジラシリーズとは、日本人の原子力観を反映した歴史そのものなのだ。

 

巨大化するゴジラ=原子力

ちなみに、ゴジラのサイズも数度にわたって変更されている。 日本の建造物が高層化するたびにゴジラも巨大化してきているのだ。

科学がどれほど進歩してもゴジラは相対的に強大な力を持ち続けてきた。これこそ、いかに科学を進歩させようとも、常に核は強大な力を持っていたという感覚の現れだろう。そして、それが人間に対して与するか、それとも仇なすかは時代が決定してきた。 以上が、ゴジラというキャラクターと日本人の関係のざっくり歴史学。

 

ゴジラ史の文脈で観る「シンゴジラ」

ゴジラ映画最新作は、3.11の影響が色濃く反映されたものになった。

ここに見える、日本人と原子力との新たな関係性とは何か。

 

3・11は、ゴジラを再び怪物にした

そしてシンゴジラはといえば、歴代最大のサイズを誇り、そのデザインは不気味さが強調されたものになっている(特に目とか本当やばい)。フクシマ後のゴジラ像としては当然というべき姿だろう。

東日本大震災および福島第一原発での事故は、ゴジラが被っていたマスコットとしての着ぐるみを引き剥がしたのだ。

それでも結局は誰かがマスコットにしてしまうんだから、大作映画で社会的メッセージを訴えること自体に限界を感じないでもない。まあこの第2形態のフィギュアが売れてしまうのは理解できるけど。

 

人類の危うい希望

また、劇中でゴジラは、体内にある元素を体内で合成し、新元素を作り出す、地球上でもっとも進化した生物であると解説された。ゴジラの存在は、人間科学の発展に寄与する新たな可能性そのものとして描かれていた。

確かに核のもつエネルギーは莫大なものであり、その平和利用への研究は価値あるものだ。(日本が潜在的な核兵器保有国であるという意味もあるだろう)

現実の話、 「もんじゅ」廃炉以降も、核燃料サイクルの研究は続くという。僕はこの記事で、これに対する意見を表明するつもりは無い。実際、将来的に高速増殖炉を実用化させることができれば、これまで研究してきた人々は、「ほら見たことか」と言っていいだろう。それだけの価値ある研究だ。

高速増殖炉研究は、その経済的コストの大きさに批判が集中しているが、その意義は有用性と厳密に天秤にかけて初めて判断できるはずだ。(僕は世でいわれるコスパが安易に使われすぎていると感じている。) 日本は唯一の被爆国であると同時に、原子力大国でもある。 それゆえ、原子力については国論の分裂が生じている。

怪物を根絶するのか、味方につけるのか。だが、どちらを選ぶにしても決してそのコストを低く見積もってはならない。 相手は人智を超えた、怪物なのだから。

 

日本の中心で生き続けるゴジラと、忘れゆく僕ら

そして、「シンゴジラ」の最も「シン」な部分は、そのエンディングにある、と僕は考える。

 

 

それは、東京のど真ん中、つまり日本のど真ん中にゴジラが氷漬けにされて突っ立っているということだ。

僕らは、原子力という「怪物」との向き合い方を保留しているに過ぎない。あの時、福島第一原発での事故を通して僕らは、原子力という怪物的な力に、心から恐れおののいた。

しかし、喉元を過ぎた恐怖は早くも忘れ去られようとしている。

 

劇中中盤で、政府が(「市民の安全」のために)攻撃を断念すると、ゴジラは海に消えていった。するとその後、人々がまるで何事もなかったかのように日常へと帰っていく様子が描かれた。(高校生の朝の登校風景を上から撮ったり、アニメ的な演出でその異常性を意図的に際立てていたように思えた)

いまこの瞬間、世界のどこか遠いところで起きている悲劇に共感して心を痛めるのは実際とても難しいことだ。でも僕らは、つい最近自分たちに降りかかった脅威すら忘れてしまえるみたいだ。

 

人々がその脅威を忘れても、ゴジラはさらに力を増して再び東京に現れた。

あの時倒していれば…

 

「あの時」――ゴジラ第二形態がいつを指すのかはわからない。 1986年かもしれないし、2011年かもしれない。 ひょっとすると1945年かもしれない。

後で嘆いても仕方がない。 それなのに、再び悲劇が起これば、僕らはまた「あの時」を思い返すことになるんだろう。考えたくないけれど、最悪の事態を想像することは「不謹慎」ではないと僕は思う。

「想定外」じゃ済まされない。僕らは「想定外」どころか、想定することすら放棄していないだろうか。

怪物は刻一刻とその大きさを増し、倒すのが難しくなっていく。 こうしている今だって、少し高いところに登れば、ゴジラを固める氷が溶けだしてきているのが見えるはずだ。

 

怪物を倒すことも、味方にすることもできずに終わったのがフクシマ以後のゴジラだった。

でも本当にヤバいのは、メタファーの力を借りなければ原子力問題がろくに話題にも上がらないことかもしれない。いや、この映画が評価されるにあたって、ここまでやった『シンゴジラ』さえ原子力と関連付けて語られなくなっていると感じる。

 

ゴジラの尻尾の謎ー怪物を生み出し、巨大化させたもの

結構話題になっていた印象がある、ラストシーンに映ったゴジラの尻尾について。

まあ正直、ちょっと思わせぶりなシーン入れてやろう的な気持ちが見えなくもない描写ではあった。

蛇足であるとは自覚しつつ、僕の考えを書く。

 

そもそもゴジラを生み出した原因は何か。 もちろん原子力だ。

『シンゴジラ』では、既存の生物が原子力の影響で怪獣となったという描写がなされた。やはり、凶暴な「ゴジラ」を目覚めさせるのは第1作と共通して核の力だ。

 

そしてもう一歩進めるなら、その原子力を生み出したのは何か。

それは、僕たち人間だ。

僕たちはかつて、大量消費の現代社会を支えるシステムとして原子力発電を選び取った。そして、それに対して積極的に疑問を呈することもしてはこなかった。

そこに、「効率性」という幻想と、人間理性への過信、そして限りない欲望、あるいは完全な無関心が存在していたことは否定できない。

 

福島第一原発での事故を引き起こしたのは、東日本を襲った大地震だ。 だがフクシマは天災だったか。答えるまでもない。

『シンゴジラ』で印象的に描かれたのは、日本政府の体たらくだった。 政府の意思決定の遅れやミスが原因で、被害が大きく拡大したという直接的な描写はないものの、想定外の事態に対する人間の無力さと、その「想定」の貧弱さをくどいほどに表現していた。

 

人間の脅威となる怪物を生み出し、ここまで巨大化させてきたものは何か。

凶暴な怪獣の姿をまとって現れてきたものの正体は何か。

悲劇を生み出した本当の原因は何か。それに目を向けない限り、ゴジラは再び現れてくるんだろう。

個人的には、どんな形であれもう続編は見たくないなあ…

 

ひとりごと

それはそうと、横たわってたゴジラが凍り付く前に立ち上がるけど、

あれって、「え、だめだったの?」っていうドキドキ感を追求したってよりも、あの歯医者さんスタイルで固まられたらクソダサいっていう視覚的な要素が大きいよね、たぶん。